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1998.2.17 Team Ski Jumping (K120) in Hakuba



岡部・斎藤・原田・船木が飛んだ!
長野冬季オリンピック ジャンプ団体戦観戦記


白馬ジャンプ競技場


1998年2月16日 白馬へ
■念願の長野オリンピックジャンプ団体戦のチケットは結局立見のB席になりました。 普段からジャンプはおろかスキーだってしないくせして、ジャンプのこととなると目の色を変える私ですから、長野のチケットは何が何でも手に入れなければ気が済みません。 最近はV字ジャンプ全盛になって日本選手が非常に良い成績を残すようになり、また、前回リレハンメルオリンピックのジャンプ団体戦ではあと一歩のところで金メダルを逃したこともあって、長野では是非ジャンプ団体戦を見に行くんだと決意していました。 当然、その実力が充分日本選手に備わっていることはワールドカップの結果を考えれば火を見るよりも明らかでした。あとは現地で自分の目で見届けるだけです。

■2月16日、久しぶりの家族旅行気分で白馬に乗り込みました。 ホテルに向かう途中のタクシーの中で外の様子を見ると、晴天で風も穏やか、この状態であればおそらく明日の競技は天候の心配は要らないのではと思えました。 すると、タクシーの運ちゃんがぼそっと一言。 「今は晴れてるけどね、こりゃあ明日は雪になるね。間違いない。」 八方尾根にかすかに見える雪煙と運ちゃんのこの一言がいやな"不安"をかきたてます。



1998年2月17日 長野県白馬村白馬ジャンプ競技場
■朝起きてみると、外はやはり吹雪。 不安的中。 ここで、競技そのものまで中止になるのでは…という最悪の状況はあえて考えないようにして、藤裕二君との待ち合わせに向かいます。 彼は大学院の友人と一緒にチケットを入手したとのことで、両親に断ってこの日は藤君と行動することにしていました。 待ち合わせ場所でいつもの彼の笑顔。 「旗作ってきました。」 [日本選手四人の名前の入った手作りの日章旗]を手に、雪に打たれながらJR白馬駅から白馬ジャンプ競技場まで歩きました。 競技場に着いてみるともうすでに観客席はほぼ埋まっていて、私たちはブレーキングトラックの正面一番奥、電光掲示板の数m前の所に陣取りました。

■断続的に降り続く雪。 強弱を変えながらランディングバーンをたたく風。 その日の白馬はまさしく白馬特有の厳しい天候でした。 雪が強くなると双眼鏡を使ってもスタートゲートにいるはずの選手の姿が見えにくくなる、そんな状態のまま競技が開始予定の午前9時30分から更に30分遅れることが決定されます。 私は、寒さを紛らすかのようにチアホンを吹き鳴らしながら午前10時を待っていました。 その時私が思い出していたのは昨年の1月に同じ白馬の競技場で行われたワールドカップジャンプでした。



1997年1月26日 同競技場 ワールドカップ白馬大会ラージヒル
■毎年日本でのワールドカップジャンプは札幌で行われます。 この年は長野オリンピックのプレシーズンということもあり、札幌と白馬の両方で行われました。 ところが白馬では吹雪のために1日目のノーマルヒルが競技中止になり、ラージヒルも予定時刻を遅らせて開始されました。 競技はめまぐるしく変わる風向きと降り続く雪のために失速する選手が続出、1本目は最初に飛んだ十数人をキャンセルし、全ての選手が終わってから改めて飛ばせることになりました。

■厳しい条件はワールドカップポイント上位の選手にも容赦なくふりかかります。 有力選手が軒並み失速し1本目は番狂わせの連続。 2本目は風向きは向かい風でほぼ安定したものの、降り続く新雪に足を取られて転倒する選手も出て、どれだけ遠くまで飛びいかにきちんと立つかが勝負の分かれ目となりました。 結果は風の条件に恵まれて2本のK点ジャンプを揃えたアダム・マリシュ(POL)が優勝、1本目に131.5mを飛びながら2本目に失敗した葛西紀明が2位、2本目に130mを飛んでそのシーズンのスランプから見事に復活を果たした原田雅彦が3位になりました。 葛西と原田が記録した2本の130mジャンプは二人の復調を示すとともに、白馬ジャンプ競技場がいかに風と雪の条件の厳しいジャンプ台であるかを各選手に印象づけたようです。



ジャンプ団体戦(K120)競技開始 1本目
■団体戦の競技は各国4人ずつエントリーします。 全体を4グループに分け、各グループに各国1人ずつを配します。 国ごとの順番はその時点でのワールドカップポイント国別成績で下位の国から飛びます。 日本はこの時ワールドカップ国別成績で断然トップ。参加13カ国中最後の13番目に飛ぶことになりました。

■1本目開始。 第1グループでは強敵ドイツのスヴェン・ハンナバルトがK点を大きく越えトップ、日本の岡部孝信もK点越えで首位と僅差の2位。 第2グループでは日本の斎藤浩哉が130mの大ジャンプでドイツを抜いて首位に立ち、非常に良い雰囲気で競技は進んでいきました。 観客もみんな安心して観戦しているようにも感じられました。 しかし、ここは白馬。 この日も白馬特有の風と雪がこのまま黙っていてはくれませんでした。

■第3グループの選手が飛び始めると、それまでとは違う猛烈な勢いで雪が降り出します。 雪は日本の第3飛躍原田雅彦の時に一番強くなり、原田が飛ぶ時だけは双眼鏡で追いかけることもできず、原田の姿は踏み切ってからマキシマム(飛行曲線の一番高いところ)に来た辺りでやっと確認できました。 が、見えたと思ったのも束の間、80mの手前に原田は着地します。 観客からは一斉にため息が漏れました。 しかし観客席で競技を見ていた人で、原田のジャンプを責める人はおそらくいないでしょう。 それくらい、悪い条件だったのです。

■第4グループになるとまた少し天候が落ち着いてきました。 日本の第4飛躍は船木和喜。 他国の選手が順調に飛距離を伸ばしていく中、船木は失敗ジャンプでK点を超えられず、1本目を終了した時点で日本はまさかの第4位。 しかし電光掲示板に表示された成績では、トップのオーストリアとのポイント差はわずかに13点あまりで、私は充分逆転できる差であると確信していました。 あとは、この天候で競技が中断され1本目だけの成績で終わらないことを祈るだけでした。



原田雅彦
■2本目が始まるまでの間にまた少し雪が強くなり、それでも開始された2本目は途中でキャンセル。 20分のインターバルをおいてまた最初の選手からやり直すことになりました。 私の頭の中は、とにかくどんなに遅れてもいいから競技は再開してくれ、なんとしても中断切り上げだけは避けてくれ、ということだけでした。 このまま終わってしまうと日本チームは金メダルはおろか銅メダルさえも取れないままです。

■そして、それ以上に私には原田雅彦への特別な思い入れがありました。 1991〜1992年のシーズン、アルベールビルオリンピックの時から原田雅彦を応援し続けてきた私にとって、彼が『リレハンメルの失敗』という呪縛から逃れるその瞬間を確かめないことには長野オリンピックを見に来た意味がないからです。 当然原田自身も同じこと。いつまでも『リレハンメルの失敗ジャンプの原田』ではないのだ、ということを結果を出すことで証明したかったのではないでしょうか。

■1980年のレークプラシッドオリンピック以来ジャンプを見続けてきた私ですが、札幌オリンピックの快挙は伝説としてしか知らず、1980年代中頃〜1990年あたりの日本ジャンプ陣冬の時代を目の当たりにしてきたこともあって、V字ジャンプ時代になって日本選手が世界のトップクラスの選手と対等に渡り合えることがまるで夢のようでした。 その中で原田雅彦は格別重要な選手だと思います。

■日本選手の中でも最も早い時期にV字をマスターした原田雅彦は、1992年のアルベールビルではラージヒル個人戦でなんと4位入賞。 団体戦でも4位。 1993年ファルンの世界選手権ではラージヒル個人戦で4位、ノーマルヒル個人戦で優勝。 1994年リレハンメルではラージヒル団体戦銀メダル。 1996年ワールドカップではラハティ大会でノーマル・ラージ・団体全て優勝。 1997年トロンハイムの世界選手権ではノーマルヒル個人戦で2位、ラージヒル団体戦2位、ラージヒル個人戦で優勝…。 常に日本ジャンプ陣の牽引車として世界に挑み、評価に値する結果を出し続けてきた選手なのです。

■大雑把に書き連ねるだけでもこれだけの成績を残しているにもかかわらず、世間の見方はあくまでも『リレハンメルの失敗の原田』でした。 失敗といっても銀メダルを取っているのですから、原田雅彦はもっともっと良い評価を得てもいいのではないでしょうか。 何よりも彼の笑顔で選手・観客みんながどれだけ救われてきたことか。 ドイツの新聞も「ハラダは勝っても負けても笑顔を絶やさない」と褒め称えていることを忘れてはならないと思うのです。



逆転をかけていよいよ2本目!
■そして2本目仕切直しです。少しずつ天候が回復してきたこともあり第1グループでは各選手かなり飛距離が伸びます。 日本の岡部は137mのバッケンレコード。 それまでなんとなく沈み気味だった観客席もこの岡部のジャンプで一気に盛り上がりを見せます。 私も思わず大声で岡部コール。 電光掲示板の一番上に「Japan」の文字が表示され、ここで私は日本の金メダルを確信しました。 この調子ならきっと原田もやってくれるはず!

■第2グループも特に波乱もなく競技は進みます。 安定度No.1、世界で最も追い風に強いといわれる日本の斎藤は(…私は彼ほど向かい風に恵まれない選手はいないと思っています)K点付近の横風に煽られながらも持ちこたえてK点越え。 首位をキープします。 あとは、一時は観客を失意の底に陥れてしまった原田の大ジャンプに期待です。

■第3グループ、問題の雪も風も特に問題なし。 外国人選手の中で私が最も好きなヤンネ・アホネン(FIN)が130m近い大ジャンプを見せ、周りの観客に反感を買わない程度に、それでもおもいっきりチアホンを吹き鳴らします(笑)。 相変わらず向かい風が吹き続ける中、いよいよ原田雅彦です。 静かに助走を始め、サッツ(踏み切り)!原田でなければ飛べない高い飛行曲線を描きながら飛ぶ! 落ちない! 落ちない! どこまでもどこまでも飛距離を伸ばしていく原田。 ランディングバーンの一番下の方で着地! 立った! この時私は、2日前のラージヒル個人戦のTV放送でアナウンサーが「立て!立て!立ってくれ!」と叫んだのと同じ気持ちでした。 飛距離137m、バッケンレコードタイ。 1本目の失敗を自らのジャンプで取り返した形になりました。

■最後の第4グループ。 アンドレアス・ヴィドヘルツル(AUT)が136.5mの大ジャンプを見せて、一層観客席も盛り上がります。 ここまで来れば他国の選手の大ジャンプも日本選手の応援に勢いをつけるだけです。 第4飛躍の船木は長野オリンピックでは最も安定した成績を残しているうえ、2位につけているドイツとのポイント差は20点以上あり、それこそ1本目の原田のような極端な失敗ジャンプをしない限り首位はキープできます。 ドイツの第4飛躍ディーター・トーマは120.5mと手堅くまとめてきましたが、風の条件が良いので船木もK点は越えてくるはずです。 船木スタート、観客席では最後の気力を振り絞ってチアホンが吹き鳴らされます。 サッツ! いつもの低い飛行曲線はこの時もスムーズに伸びていきました。 ランディング! 間違いなくK点は大きく越えた! トーマよりはポイントは上だ! ポイントはどうなった!? 真後ろの大きな電光掲示板に全ての観客の注目が集まります。



日本逆転の金メダル!
[電光掲示板]に点数が表示されてから、そのあと自分がどんな奇声を発したのか全く覚えていません。 確信していたとはいえ、やはり優勝というのは嬉しいもの。 [ブレーキングトラック]では選手達が倒れ込んで抱き合い、ランディングバーンではコーチボックスにいた日本チームのコーチ達が大きな日章旗を持って斜面を滑り降りてきました。 競技開始からずっと氷点下の気温と降りしきる雪でなかなか背筋を伸ばせなかったのですが、この時だけは観戦の疲れも寒さも忘れてはしゃぎました。 隣で見ていた藤裕二君と一緒に大きくバンザイ、そして握手。 おそらく一生のうちでこれほどまでに高揚した気分になれることはそうそうないでしょう。

■選手達のフラワーセレモニーを見届けて、私たちは競技場を離れることにしました。 藤君の作った旗は割とよく目立っていたらしく、見知らぬ中年のご夫妻や高校生くらいの女の子達数人に写真を撮らせてほしいと頼まれる始末。 挙げ句の果てには藤君が北海道新聞社の女性記者に取材を受けたりして、競技終了後も興奮は続きました。 藤君は旗をたたまずに翻しながらそのまま白馬駅まで歩きました。

■正直なところ、競技観戦中は決して楽なものではありませんでした。 もともと雪に慣れていない人間なので、ずいぶん雪をなめてかかっていました。 まさか、雪が降りしきる中立っていることがこんなに辛いとは(笑)。 スキーウェアを着ていたので氷点下の気温はさほど気にならなかったのですが、雪がからだや荷物に積もり、一旦溶けて再び凍ってしまうので、双眼鏡に雪がかからないようにとかけておいたハンカチはカチカチに凍りつき、背負っていたデイバックの中にしまっておいたパンフレットや新聞はもうぐしょぐしょ。 藤君の旗はシャーベットのようになっていました。 イベント会場などで白馬の感想を聞かれたときに私がまず第一声「寒かったです」と言った意味、わかっていただけるでしょうか?



はぁ〜 終わったぁ...
■ペーパー『あくろま〜と』などでさんざん騒ぎまくっていた私の長野オリンピックは終わりました。 私はまさかジャンプで世間がこんなに盛り上がってしまうとは思わなかったのですが、ジャンプファンとしては非常に気分が良いオリンピックでした。 これを機会に、いまいちマイナーだったノルディックスキーがもう少し世間でも注目されるといいな、と思っています。 まずは、海外でのワールドカップジャンプのTV放送をもっと増やしてくれないかな…って、オリンピック後の放送予定全然入ってないやないけ! オリンピック直前にはあんなに放送していたというのに…! なんて非情なこの世の中。 みなさんそんなにサッカーのワールドカップに期待しているのでしょうか? うーん…あれは…(以下略)。 これは問題発言かも(笑)。

■てなわけで、私は今年いっぱいは長野オリンピックでいきます(何が)。 このページも当分載せておくことにします。 また次のシーズン、ワールドカップジャンプはサマージャンプからありますのでよろしくね(ここまでくるとFISの広報マンみたいや)。 ちなみに、来年はオーストリアのラムソーでノルディックスキー世界選手権があります。 注目すべし!



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